眼球運動を用いた感情解放ワーク:脳科学と体性感覚からの視点
はじめに
心と体の繋がりを重視した感情解放ワークでは、呼吸、姿勢、体の感覚など、様々な身体的なアプローチが用いられます。これらのアプローチは、感情が単なる心理的な現象ではなく、身体的な基盤を持つことを示唆しています。本稿では、これらの身体的な側面の中でも、比較的見落とされがちな「眼球運動」に焦点を当て、それがどのように感情処理に関わり、感情解放ワークに応用できるのかを、脳科学と体性感覚の視点から解説します。眼球の動きは、私たちの意識的なコントロール下にあると同時に、無意識的な脳機能や自律神経系の状態とも深く連動しています。この複雑な繋がりを理解することは、より包括的な心身アプローチを深める上で重要となります。
眼球運動、脳、そして感情の繋がり
私たちの脳は、視覚情報を処理する際に絶えず眼球を動かしています。この眼球運動には、素早く目標を捉える「サッケード(衝動性眼球運動)」や、動く物体を滑らかに追う「追従運動」、そして対象に焦点を合わせ続ける「固視」など、いくつかの種類があります。これらの眼球運動は、単に外界を認識するためだけでなく、記憶の固定、情報処理、そして感情処理にも関与していることが近年の神経科学研究で示唆されています。
特に、特定の眼球運動(例えば、左右への水平方向の運動)が、脳内の情報処理ネットワーク、特に扁桃体(感情反応の中枢)や海馬(記憶に関与)、前頭前野(思考、計画、情動制御に関与)といった領域の活動に影響を与える可能性が研究されています。これにより、過去の記憶やそれに伴う感情が再処理されたり、脱感作されたりするメカニズムが考えられています。これは、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療法として知られるEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)の基礎的な考え方の一つとなっています。EMDRでは、意図的な眼球運動が、過去の苦痛な記憶と関連付けられた感情や身体感覚の強度を軽減するのに役立つとされています。
また、眼球運動は自律神経系の状態とも密接に関連しています。例えば、リラックスした状態では眼球の動きは緩やかになりがちですが、緊張や脅威を感じている状態では素早く焦点を合わせる動き(サッケード)が増加することがあります。ポリヴェーガル理論の観点からは、視覚的な入力や眼球の動きが、背側迷走神経複合体や腹側迷走神経複合体といった自律神経系の枝の状態、ひいては安心感や危険察知といった私たちの主観的な感情状態に影響を与えると考えられます。
眼球運動と体性感覚の相互作用
眼球運動は、視覚野だけでなく、私たちの体性感覚、すなわち体の内部感覚や位置感覚とも深く連携しています。眼球を特定の方向に動かすことは、首や頭部の位置、さらには全身の姿勢に微細な影響を与えます。この影響は、筋肉の緊張や緩和といった体性感覚の変化として現れることがあります。
逆に、体の緊張や特定の姿勢も、眼球の動きやすさや視線の方向性に影響を与えることがあります。例えば、肩や首の強い緊張は、眼球の滑らかな動きを妨げたり、特定の方向を見ることに対して無意識的な抵抗を生じさせたりする可能性があります。感情的な抑圧やストレスが特定の体の部位(首、肩、顎など)に現れることはよく知られていますが、これらの身体的なパターンが眼球運動の自由度を制限し、感情の解放をさらに妨げるという悪循環が生じている可能性も考えられます。
このように、眼球運動と体性感覚は相互に影響し合っており、この繋がりを意識的に探求することは、感情解放への新たな道を開くことになります。体性感覚に注意を向けながら眼球運動を行うことで、これまで意識されていなかった体のパターンや、それに伴う感情的なブロックに気づくきっかけとなることがあります。
眼球運動を用いた感情解放ワークの提案と実践
眼球運動を感情解放ワークに応用する方法はいくつか考えられます。ここでは、基本的なアプローチをいくつか紹介します。
ワークを行う上での注意点:
- 安全で落ち着ける環境で行ってください。
- 無理な動きは避け、体の感覚に注意を払ってください。
- 強い不快感や感情の波を感じた場合は、無理せずワークを中断し、安全な状態に戻ることを最優先してください。
- 深刻な感情的苦痛がある場合は、専門家の指導のもとで行うことを強く推奨します。
基本的なワーク例:
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左右への水平方向の眼球運動:
- 楽な姿勢で座るか、横になります。
- 頭は動かさず、目だけをゆっくりと左右に動かします。
- 視線は、部屋の左端から右端までをゆっくりと行き来させるようなイメージです。
- この動きを数回繰り返します。
- 動きながら、あるいは動きを止めた後に、体の中で感じられる変化(緊張の緩和、呼吸の変化、体感覚の変化など)に意識を向けてください。
- もし特定の感情や記憶が浮かんできたら、それを評価することなく、ただ観察する練習をします。
- この動きは、情報処理や脱感作に関連するとされるEMDRの基本的な動きに基づいています。
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特定の体感覚への意識と眼球運動:
- 体の中で、何らかの緊張や不快な感覚が感じられる部位に意識を向けます。
- その体感覚に注意を保ちながら、ゆっくりと眼球を様々な方向に動かしてみます(上下、左右、斜めなど)。
- どの方向への眼球運動が、その体感覚に変化をもたらすかを探求します。体感覚が和らぐ、あるいは変化する方向が見つかるかもしれません。
- 変化が見られた方向への眼球運動を数回繰り返します。
- このワークは、体性感覚と眼球運動の相互作用を活用し、身体的なレベルから感情的なブロックにアプローチすることを目指します。
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安全な場所のイメージングと眼球運動:
- 自分が心から安心できる場所(実在でも想像上でも良い)を具体的にイメージします。その場所の視覚的な詳細(色、形、光景など)をできるだけ鮮明に思い描きます。
- この安全な場所のイメージに浸りながら、ゆっくりと眼球を左右に動かしたり、円を描くように動かしたりします。
- 安全な場所のイメージングと眼球運動を組み合わせることで、安心感やリラックス感を脳と体に定着させることを助けます。これは、不快な感情や感覚が現れた際の対処リソースを強化するのに役立ちます。
効果を高めるポイント:
- 体感覚への意識: 眼球運動を行っている最中、およびその前後に、体の感覚(呼吸、筋肉の緊張、温度、微細な震えなど)に注意を向けることが重要です。心と体の繋がりを実感しやすくなります。
- ゆっくりと行う: 急激な動きは避け、リラックスした状態でゆっくりと行ってください。
- 呼吸との組み合わせ: 深くゆったりとした呼吸と組み合わせることで、リラックス効果が高まり、自律神経系のバランス調整を促進する可能性があります。
- 定期的な実践: 短時間でも良いので、定期的に実践することで、眼球運動と体感覚への意識を高め、感情調整能力を養うことに繋がります。
他分野との関連性および指導上のポイント
眼球運動を用いたアプローチは、EMDR以外にも、ソマティック・エクスペリエンス、トレ(Trauma Releasing Exercises)、各種ボディワークなど、心身への統合的アプローチを取り入れている分野との関連性が考えられます。これらの分野では、体の感覚や動きを通して感情やトラウマにアプローチしますが、眼球運動もまた、神経系や体性感覚を介して同様の効果をもたらす可能性を秘めています。
他者へ指導・サポートする際には、以下の点を留意することが重要です。
- 個別性の尊重: 眼球運動に対する反応は個人によって異なります。効果を感じる人もいれば、あまり感じない人、あるいは一時的に感情が強まる人もいます。クライアントの反応を丁寧に観察し、個々のペースに合わせて進めることが重要です。
- 安全性の確保: 特にトラウマ経験を持つクライアントに対してワークを行う場合は、安全な環境設定と、感情が溢れた場合のグラウンディングなどの対処法を事前に確認しておくことが不可欠です。
- 効果の限界と専門性: 眼球運動ワークはパワフルなツールとなり得ますが、万能ではありません。重度の精神疾患やトラウマに対しては、眼球運動ワーク単独ではなく、包括的な治療計画の一部として、資格を持った専門家の指導のもとで行われるべきであることを明確に伝える必要があります。自身の専門性の範囲を理解し、必要に応じてクライアントを適切な専門家へ繋ぐ姿勢が求められます。
まとめ
眼球運動は、私たちの感情処理や体性感覚と深く関連している心身の機能です。視覚入力、眼球の動き、脳の情報処理、自律神経系、そして体性感覚は相互に影響し合っており、この複雑な繋がりを理解し活用することで、感情解放への新たなアプローチが可能となります。眼球運動を用いたワークは、体の微細な動きや感覚を通して感情的なブロックに気づき、それを解放する手助けとなり得ます。
本稿で紹介した基本的なワークは、心と体の繋がりを意識し、体感覚に注意を払いながら実践することが重要です。安全に配慮し、無理のない範囲で探求を進めてください。この眼球運動への理解と実践が、読者の皆様自身の学びを深め、あるいは他者の心身の健康をサポートする活動の一助となれば幸いです。